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配信ニュース

町自連通信 各エリア特集

横山北地区特集【その2】
2025-10-28
長房地区プロジェクト
今や住民だけではなく沢山の人が集まる長房団地エリア
長房団地。ここは、第1回目の東京オリンピックに合わせて、1962年(昭和37年)から1976年(昭和51年)に建てられた約3600戸の都内有数の大規模団地です。時を経て老朽化も進んだため、2000年代から建て替えが進みました。2017年「八王子市長房地区プロジェクト」が進められ、2021年には写真のようにスーパーアルプスを中心とする新しい商業エリアが完成しました。






東京陸軍幼年学校➀
当時の建武台の周辺のイラスト(『東京陸軍幼年学校史 我が武寮』昭和57年発行/歴史家・村松英二氏所有より) 
再開発により今では、外から長房団地地区に買い物に来る人も増え非常に賑やかな地域になりました。そのお客様も、そして住民たちも、この長房団地がある「歴史」を背負った場所ということを知っている人は少ないと思います。今の長房団地の土地には、「東京陸軍幼年学校」があったのです。東京陸軍幼年学校とは、陸軍のエリート養成学校。13歳から15歳の男子が全国から集まり、3年間の教育を受け、卒業後は陸軍士官学校予科、本科と進んでいくシステムでした。長房には昭和19年4月に現在の新宿区戸山から移転。ここは建武台と呼ばれていました。


東京陸軍幼年学校②
現在の長房団地の場所にあった雄建山と同校内の学生集会所「斎志館」(『東京陸軍幼年学校史 我が武寮』昭和57年発行/歴史家・村松英二氏所有より) 
当時、全国から集まった生徒は360人ほどいました。全寮制で、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などの授業もあり、一般の旧制中学と比べてもリベラルな校風。勤労動員もありませんでした。ところが、長房に来てから、戦況はますます苦しくなっていきます。陸軍の付属学校ということもあり、敵機の攻撃を受けることもありました。そしていよいよ、昭和20年8月2日未明、八王子大空襲で攻撃を受けます。幸い生徒たちはほとんどが帰郷、もしくは相模川に遊泳に行っており、また、学校に残ったものも上手に逃げうせ、死者は10人前後であったといいます。同校はその2週間後の敗戦と同時に閉校しました。




東京陸軍幼年学校③
昭昭和30年ごろの学校跡地と雄建山。この山を切り崩し、長房団地は建設された(『東京陸軍幼年学校史 我が武寮』昭和57年発行/歴史家・村松英二氏所有より) 
最後の生徒の中に、後のベストセラーミステリー作家、故・西村京太郎氏がいました。のちのインタビューで彼は、こう語っています。【15日に玉音放送を聴いた後も、終戦の意味が皆、わからない。教官からも「マッカーサーが陛下に何かしたらお前たちが守るんだ」といわれ、その後も体を鍛え続けていた。実家に帰れたのは、8月の末だった】西村氏入学時の倍率は100倍くらいだったと語っていますので、「東京陸軍幼年学校」が、相当なエリート校だったことがうかがわれます。(産経新聞2014年8月19日刊「話の肖像画・作家・西村京太郎(83)【2】)より。

今は亡き御陵線➀
こんな路線があったとは!現存していたら便利かもしれないですね
長房町のもうひとつの名所が多摩御陵です。1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御され、御陵が南多摩郡横山村(現・長房町)に決まりました。そして1931年(昭和6年)長房町を横切るように開通したのが、京王電気軌道、現在の京王電鉄の前身の会社の御陵線です。北野駅から多摩御陵前駅間の6,4㎞の路線で、全国から御陵に参拝するお客さんでいっぱいになりました。




今は亡き御陵線②
横山駅御陵線開通記念昭和6年の絵葉書の写真(『絵葉書で見る八王子の100年』著・村松英二氏より転載)
人気を博した御陵線ですが、戦局が厳しくなってきた1945年(昭和20年)1月21日、「観光なんかしている場合じゃない」と、不要不急路線として運行が休止されてしまいます。戦後も復活せずに敗戦になりました。現在でも長房町、散田町、山田近辺にその面影が残る遺構があります。ちなみに、東京陸軍幼年学校をたびたび襲撃した米軍も、その隣の多摩御陵の攻撃は避けたようです。


八王子市町会自治会連合会
※2019.3.18に移転しました
〒193-0832
八王子市散田町2-37-1教育センター内
TEL/FAX  042-673-4680
受付日/月曜日~金曜日
(祝・休日、年末年始等を除く)
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